書くこと、知ること
2021/06/11
不思議なもので、書きたいこと、というのは、書いていないと出てこないものだ。
意味もなく手慰みみたいにして書き始めて、白いデジタルなつるつるの紙の上を文字が行ったり来たりと右往左往しているうちに、じわりじわりと、そうだあれも書こう、これも書こうなどと、あたかもそれまで持っていた記憶から取り出したかのように、浮かんでくる。
そんなことをもともと考えていたかどうかなんて、書いてしまったらわからない。都合が良すぎるどころの話ではない。それは、おしゃべりをしている最中に自分が話しているのか、それとも “話している自分が勝手に話している” のか曖昧になるような感じのことで、書きつけた刹那、ずっとそういう思想で生きていた人間になったみたいにして、文字が手の先からずらずらと、それが自分の意思かを照らし合わせるよりも先に、次々と並んでいく。
言葉を繰り出す営みは、心を炙り出す自動的な機械のようだ。
ひとは、文章を書くことはアウトプットだ、と言うけれど、ぼくが思うに、書くことは、見たり聞いたりすることとよく似ている。
音や言葉や映像や、なんやかや、何かを受け取ったとき、心の中には自ずとそれに対する返答<レスポンス>が発生する。それは自動的な心の機能であるから、止めることはできなくて、どのような場合においても入力と対になる応答は自ずと持ち得るものだ。
受け取る<インプット>というのは、反応する、ことだ。
文章を書いているときには、何が起こっているかといえば、ぼんやりとした大きななにか、一言では言い得ない感覚、概念を、なんとか文法的な並置や羅列で以て他者へと伝え得る形に変換しようという試行が、ひたすらに反復され続けている。
それは中心を捉えることのできない不定形な靄のようなものに、言葉というあちらこちらにあるレンズから光を送って、その外形がどんなものであるのか、やわらかいのか固いのか、心地はどんなものか、などを明らかにする行為である。
そこでは、どの角度から光を当てればよく形がわかるようになるのか、どこにどのような言葉を使えば適切な光が発せられるものなのか、言葉一つ取っても多数の選択があるなかで、それらの組み合わせ、配置、相性など無限の可能性の中からいい感じの状態を見出すために、試行錯誤を行っている。
言葉を選択する行為を通じて、対象の性質を、存在を、より詳しく知っていく、それが書くということの素直な捉え方かな、と思う。
たとえ、書いた先で出来上がった文章が、自分が知り得たことほどにははっきりとしておらず、ただぼんやりとして、誰にも伝わらないようなものであったとしても、それを書く以前には知り得なかったような、何を伝えたいのかについての輪郭、質感、大きさなどについて、より詳しく知っている状態へとたどり着くのだから、何ら不具合などない。
見えないものへ光を当て、その反射光を受け取る。表現されていない物事や感覚、情感を表現しようと試みることを通じて、言葉一つ一つから異なる視点のインプットを得る。
書くことは、ひたすらにインプットが注がれ、心はその都度これに自動的に応答をし、それがただ繰り返される、単純でいて果てのない循環の、熱量を発する、言葉を燃料にして動く燃焼機関をぶるぶると震わせる自動機械として、時に原動力となり、生を支える柱にもなるものであるから、ただ無遠慮に書くということもまた、何かを始動するための火花となり得ることもあるのかもしれない。