有限と無制限のあいだ

2020/08/08

この文章はわずかながらVRミュージカル「人魚姫」公演のネタバレを含みます。

前置

私がミュージカルと聞くと真っ先に思い浮かべるのは、幼い頃学校のビデオ学習で観た「サウンドオブミュージック」での劇中、草原で主人公の女性が歌い出すシーンだ。 突如としてウキウキ状態になり、歌いながら軽やかに踊り出す成人女性の姿を見て、何が起きたのかと置いてきぼりを食らったような心持ちになったことを覚えている。

ミュージカルに触れる機会というのはあまり多くない。そもそも公演自体が少ないという認識だ。一般的な舞台演劇であれば小劇場など文化的な営みとしてそれなりの数が存在している。だが、ミュージカルとなると、せいぜい劇団四季など有名どころの公演を観に行ったことがある程度だろう。私もそんなものだ。それらは生活には存在しない。

そもそも舞台というもの自体が日常からは縁遠い。 心理的な距離があるからこそ「ハレの場」として機能するのだと考えればその「遠さ」は順当ともいえる。しかし、遠見の情報が溢れ、世界のスケールが見かけ上だけは縮小した現代観においては、1コンテンツとしての“舞台”のスペシャリティは相対的にみてあまり高いものではなくなっている。

一方で、複製可能なコンテンツは時間を問わず入手が可能となった。時限によるプレミアムは消失し、純粋な内容の価値だけが流通している。 しかし、いつでも手に入れられる安心感が、むしろコンテンツとの距離を遠ざけているように思う。 いつでも見られるなら、いま見なくても、今日見なくてもいいのではないか。 それは欲しかった自由だが、手に入れた途端どうでもよくなってしまった。 今やらねばならないのは、今しかできないことである、という消費のプライオリティ。

FOMO
Fear of Missing Out
我々はみな意図により限定された体験、設計された恐怖に半身を浸して暮らしている

“舞台”はコンテンツとしてもハレの場としても距離がある。しかし距離というカウンタブルな概念の裏には、有限性が基本原理として見え隠れしている。本来、制限をこそアイデンティティとする存在が有限性を失う瞬間を、ぼくたちはどう捉えるのだろうか。 それは永遠に来ない閉店を待つ閉店セールのようなものだろうか。

雑感

2020年7月12日、VRミュージカル「人魚姫」を体験してきた。
私が観たのは第2公演。
これを書いている翌日8/8に最終公演が予定されているそうです。ましたが無事千秋楽公演を終えたそうです。おめでとうございます。(一日間違えていて間に合いませんでした。)
https://shinonomemegu.com/pages/special?p=ningyohime

気合いの入った大型和製コンテンツ、しかも限定度の高いイベントでもあるということで、都合の付く日を見つけて、チケットを購入しておいた。 その後、運良くというかご縁があったのかはわからないが、オンラインの講演にお呼ばれして登壇をした際にGugenkaのプロデューサーである三上さんとご一緒する機会を得て、裏側のお話なども伺うことができた。(とはいえ忌憚なく書く)

「VRミュージカル」という名称を字義通り捉えれば、舞台で行われるミュージカルを“Virtual Reality”として体験可能にしたということだろう。今回の公演はまさにその解釈を適切に表現していたコンテンツだった。 全編を通して、飛び抜けて派手な演出などは存在しない。良く言えば万人向け、悪く言えば凡庸だ。そこには間違いなく舞台としてのミュージカルが(ある程度)あった。固定された席に座り、舞台を目線上で眺める。そこには新規性というものは感じられないし、「見たことのある風景」が広がる。

奇妙な感覚だ。「見たことがある」という気はするが、実際には見たことはあまりないのだ。特に小劇場におけるミュージカルなど体験したことがない。けれど今それを体験している。小さな劇場に私は座り、ミュージカルを観ている。この体験は“実質的”に舞台を“存在”させていたし、“Virtual Reality”として適切に機能しているのは明白だった。

公演が終わったとき、「VRを一番最初に体験するコンテンツ」がこれだったら、どんなに良かっただろう、と思った。(ちなみに私が最初に体験したHMDを用いたいわゆるVRのコンテンツはごくごく平凡で退屈なジェットコースターの360度動画であった。) だから私の感想としては、VRミュージカル「人魚姫」の体験は、「普通」だったと結論付けた。

「普通」であるということは、存外難しい。「普通以下の部分がない」という条件をクリアしていなければ、「普通」にはなれない。普通を下回る要因が一つでもあれば、それは「普通以下」という評価を受ける。おかしな話だが、「普通以下」には普通は含まれていない。「普通以下」というのは、実際は未満、不足である。つまり「普通」とはなかなか優れているということに等しい。

「普通である」こととは即ち、安定した品質があるコンテンツだったと言い換えられる。体験を主たる価値に据えるVRコンテンツにおいて、体験を途切れさせないことがまず求められる最低の要件である。手落ちがないという時点で、現状のVRコンテンツの中では上位に食い込む完成度と言っていいだろう。そうした意味において、「普通」であるという印象を抱いたコンテンツは初めてかもしれない。ハードウェア的にもソフトウェア的にも制限の多いVRコンテンツの世界においては、何かを実現するために、何か重大なものを犠牲にしてしまっていることが多すぎる。被虐的な傍らで快楽を追い求める趣向など、どう考えてもアブノーマルでしかない。

舞台装置としての再解釈?VR的新規性?新しい未知なる体験?そんなものは残念ながら存在しないようだった。かろうじてそれらしいのは、主演のアクターである東雲めぐちゃんが至近距離まで近づいてきてくれて、自分の周りをふわりと回ってくれる演出が行われる程度であり(ここは当然最大級にウッキウキな気分になる)、基本的には全編を通じて基底現実の舞台を模してつくられていた。そこには明確な選択が見て取れた。 それは今を生きる我々にとっての「未来を感じさせるコンテンツ」ではなかった。しかし、はるか昔に思い描いた、いつか当たり前になっているといいなと想像していた「あの頃の未来」は確かに目の前に存在していた。

良くも悪くも「いまできることを表現した万人向けのコンテンツ」だった。 この優れた平凡さは、東雲めぐちゃんのキャラクター(個)のコンセプトを作劇や演出、コンテンツ自体にも適用したことに拠るものだが、結果としてギークだけではなくどんな人にとっても理解ができる無理のない汎用性の高いコンテンツに仕上がっていた。 他人に勧められるVRコンテンツのいかに希少なことか。

しかし疑問は残る。これは本当にVRでやるべきものなのか? VRでやるならVRでしかできないことがなくてはいけないのではないか? 何度でも再生できるコンテンツを、公演というロールプレイに興じながら限定公開する意味はどこにあるのか? アクターがVRでしか実在できないのだから…本当にそうだろうか? これらの問いは本公演のみならず、あらゆる1回性を有する芸術に今後必ず降り掛かっていくテーマなので、今回それを疑問に思うのは不適切かもしれない。 だが、私は本公演を「現在のVRコンテンツを写し取った一つの模範的回答」として受け取ったことで、これらの命題に触れることなく「当たり前に楽しめてしまうコンテンツ」を目の前にして、よりいっそう根源的な問いが重たく実在感を増したようにも思えた。

一つだけ間違えようのない確かなこととして、めぐちゃんがかわいいということがある。 これだけですでにコンテンツ自体は成立しているのではないかという気もするので、以上を雑感とする。

些事

開始前の機材準備に2時間程度を確保していたがギリギリだった。 OculusQuestとVARKのアップデートがサーバ混雑により低速になってしまい、なかなか進まなかった。 準備の大変さがVRの手軽さとは相反する要素になってしまっている。視聴できない可能性にやきもきするくらいならば、劇場に足を運ぶ方がよほど気が楽だ。 前日からの準備と、当日の数時間前までには再び確認が必要と思われる。

約80分の公演でHMDを被り続けるのは案外辛かった。 これは単純にQuestの顔に接触する部分のクッションが長時間使用に適していないからだと思う。痛い。 それと6DoFではなかったため、空間の中での身体自由度が低く、心理的に窮屈だった。

第二回公演では演出を強化しました、とアナウンスがあったが、これの是非について、どういった声があるのかが気になる。 「完全再現可能なコンテンツ」として捉えると同じ金額で差が生じるのはおかしいだろうという意見と、公演を重ねるごとに変化していくのが「舞台」であるという見方の両方ができるので。

歌がかわいかった。めぐちゃん以外の曲が存在しないというのが、もはや公演自体がファンサービスとして機能していて、これはこれで舞台ぽいなぁと思った。

3Dオブジェクトを書き割りにした演出はわかりやすくてよかったが、せっかくHMDで視聴していたのにルックの立体感が減少してしまい、体験としてはマイナスに働いていたのが残念だった。まぁこれも主演俳優の立体的な動きをより目立たせるための装置として機能していたので、選択と集中の結果だと解釈をした。

エンドロールが全編中最も良い空間体験になってしまっているのは、どう捉えればいいのか困惑した。