編集

2021/06/28

#デザインの雑談

編集という行為は奥が深い。

うんうん、と納得する反面で、しかし「編集」という語が、何を指しているのかいまいちわからないでもいる。

編集とは一体なんなのか?

たとえば雑誌。

写真があって、文章がある。それぞれが協調して意味を表していることもあるし、そうでないこともある。文章や写真が配置される場所、読む順番、読まれる位置でのニュアンスの変化、リズム、etc…

紙面に必要と思われる要素が、編集者によって必要とあれば用意され、ときには空白をも要素として用いて、画面は満たされる。それらは編集者の作為性や意図によって音楽のように紡がれて、全体をかたちづくる。

まとまりについてのタイトルが付与されることもあるし、本文から抜粋したテキストがフレーバーとして大きく表示されることもある。論理的な物言いですと言わんばかりにサブタイトルと本文が整然と反復していくこともあるし、全く無意味に思える意味のわからないページが存在していることもある。

結果として、読むものの無意識が、まるで浮かんできた泡のように意識の境界で応答をする。なぜそこにその言葉が並べてあるのか?写真が大きいのは何を意味しているのか?見てほしいもの、または見てほしくないものはなんなのか?

たとえば写真。

カメラがあり、レンズとセンサーと画像処理チップがあって、画が出力される装置を介して、図像を得る。(フィルムでは少しちがうけれど)

なまめかしい情報量を持つ現実を、あくまで光学現象として表現された範囲の、さらに装置が取得できる範囲の視覚情報のみによって、あまりに窮屈なフレームの内部へと切り取る。

シャッターを切った瞬間、それ以外の情報は失われ、枠内に存在している情報だけが、たかが数千万程度の色を持った粒に置き換えられる(現実を構成する粒子の数に比べれば“たかが”といえてしまう)。

しかし、その切り取って“限定する”行為こそが、“限定した意味”を我々に妄想させる。なぜその瞬間を切り取ったのか?どうして切り取る必要があるのか?枠内に収めたものは何を意味しているのか。その場所は一体どこで、誰が撮って、誰が撮られているのか。視覚的な美しさ、それはなぜ美しいのか。

枠内に押し込まれた、または収められなかった要素ごとの関係性が、 半ば強引に意味を結びつけ、シャッターボタンを押しただけで生み出された数千万個の粒の集まりに対して、存在しなかった解釈や複雑な情報を発生させる装置として機能する。

意図をより強調するために、写真“編集”も後工程で行われるけれど、編集と呼ぶべき行為はむしろ撮影前のシャッターを切る瞬間にこそ行われていると考える方が自然だと思う。

写真は、作者の意図が完全に同定され得ない不完全なコミュニケーションである。しかしながら、そうした非対称性を編集によって作為的に生み出すことで、対話のあいだに余白をつくりだしている。

たとえば文章。

いまぼくは考えたことを言葉にして、キーボードを介してそれを画面へと書き付け、ある程度のまとまりになったら並び替えて一つの意味を表現しようとしている(のかもしれないし、またはそうでないかもしれない)。

書いている最中に加筆することもあるし、減らすこともある。なんとなく組み立ててから書いていってはいるものの、書きながら組み替えてもいる。文章は決定的ではない。

多少脱線するが、科学的に論理的に記述することを求められる科学論文でさえ、論“文”の形式を取っている。文章は曖昧さを許容するにも関わらずだ。厳格(Strict)な文章など、この世には存在しない。なぜなら文章はコミュニケーションの手段として生まれ発達してきたものであり、真実を情報として記録するための方法ではないからだ(長くなるので割愛)。

それではなぜ文章に頼るのか。人類が獲得し得ている表現手法のうち論理と表現とのバランスが最も良く、話者である限り取り扱え、我々が言語を用いることで進化してきた種であることなど背景は様々だろうが、一番は出来事や物事を、情報として決定し固定する性質に他ならないだろう。


情報はそれだけでは「ただある」というだけであり、記号ですらない。だからこそ、人が情報を取り扱えるようにするためには、「ある」ということを知覚できるように変換する必要がある。文章でいえば、書くという行為ただそれだけで十分だ。言葉にした瞬間、語られ得るものは語られる。

感覚器であったり、紙面であったりと、具体の度合いはさまざまだけれど、「どこか」に「何か」が「存在している」という意味を読み取れるように、インターフェースを与えてあげる必要があるわけだ。

もしかするとそれが「編集」なのか?と胸のうちで当てはめてみると、すこしだけすっきりしたような気持ちになった。

存在や現象を読むことができるようにインターフェースを設計してあげる、つまり編集とはUIデザインみたいなものかもしれない。それは多くの人が当たり前に行っている、専門性に依らない行為ではあるけれど、意味をわかるようにする、なんて、人間の根幹を支えている活動なわけだから、その奥深さには納得がいく。


ぼくは普段、デザインという(思いのほか複雑な)編集行為を通じて価値を生み出すことを仕事にしている。

周辺に存在するあらゆる要素の状態を読み、情報を組み換え、要件を洗い出し、それに潜む想いや願望を浮かび上がらせ、解決する方法を考え、新しい価値を提示する。

デザインも高度な編集行為の一つであることは疑いようもないけれど、何が編集にあたるのか、どこまでがデザインなのか、設計とはどのような行為を指し示しているのか、ものごとは大いに複雑だ。

たとえば「まんじゅう」という語が指すものは、A君にとっては近所のおばあちゃんの家に遊びに行くと毎回出してくれる豆大福のことを指しているかもしれないし、B君にとっては毎年家族旅行で訪れる温泉地の露店で販売しているほかほかの温泉まんじゅうのことを指しているかもしれない。

だから何が編集でどこまでが編集なのか、なんて考えること自体にはあまり意味がないし、そうするとこのポスト自体にも意味はないことになる。

しかし何かしらがほんの少しだけすっきりしたり、ものごとの中間にある語られなかった関係性の秘密の存在を感じられるようになったり、そういう価値がもしわずかでも出せていたとしたら、それこそが編集の力であり、そうしたインターフェースとして機能する文章になっていればいいなと思いながら、この文章を書きました。

2021年6月28日
sabakichi