デザインの価値を評価する
2025/06/07

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デザインの価値を適切に評価することは実はとても難しいことだ。
ここで言うデザインとは、グラフィックデザインなどのビジュアルデザインのことではなく広義のデザインのことを指す。一般にはデザインという概念が何を示しているのかすらわかりにくいとされているから、それを判断するとなると難しいのは当たり前の話に聞こえるかもしれない。しかしデザインというのは我々が思っている以上に生活と文明に直結しているから、それを明瞭に認識できていないからといって切り離すことはできない。
良いデザインを適切に捉えることができるようになると、生きる上でのあらゆる要素が格段に向上する。もちろん受け手としても作り手としても恩恵がある。それはこの世における絶対的尺度ではないから、自分の人生を豊かにしたり作品をよりユニークなものにする要素を世界から主観的に選択できるようになれば、強い個別解を得ることに繋がる。そうした恩恵を日常の中で当たり前に享受できるようになるのだから、事物の構造たるデザインを適切に紐解くことができる技能はあるに越したことはない。基本的にはプラスにしかならない話のはずなのだが、どうにもここに大きな困難がある。
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優れたデザインとは、ものごとの構造を変えるものであると言える。もちろんこれは色々な見方がある内の1つの視点に過ぎないが、核心に近い捉え方だと思っている。形式はなんでも良い。モノでもコトでも変わりはない。直接的な提案であったり、商品やサービスを介して世の中に新しい価値観を問うたり、道具として日常に介在し行動の質を変化させたり、日々の無形の活動によって徐々に世界を作り変えていく方法など、無数の手段を取り得る。
それまでの世界では当たり前だとされていた価値観を転換し、編集し、時には破壊して作り直すことで、構成要素を変えずに構造によって新たな価値を生み出す取り組みこそがデザインである。(その際、もちろん新しい構成要素を用意しても良い)
手持ちの素材/道具/資産/資本etc…を如何にして上手に扱うか。答えの決まっていない自由なパズルのようなものと喩えるとわかりやすいかもしれない。手持ちのピースを組み合わせて発見済みの絵柄を模倣しても良いし、誰も見たことのない絵柄を作り出しても良い。もちろんその絵柄は何らかの特定の機能を有するようになる。今までにない新しい絵柄を狙って組み立てることは至難の業である。そしてそこで生まれた機能する構造(絵柄)こそがデザインという概念の指し示すものだ。
しかし構造(絵柄)自体には実はそこまで大きな価値はない。その絵柄がなぜ提示されるのか、どこに、誰にとって必要なのか。機能する包括的かつ多層的な全体構造を組み上げることもまたデザイン(設計)である。デザインは複雑な高密度の個別解であるために、適切に構成されたデザインが提示されたなら、その瞬間に内包するルールやスキームが一変することになる。
つまり良いデザインというのは自ずと、いわゆるイノベーションのような「新しい構造へと更新する機能」を高い純度で持っていることになる。同時に「それらしいだけの既存の模倣物」が根本的に無意味であることもよくわかる。すべての人々と命題はそれぞれ異なるパズルのピースを持っているから、既存の絵柄をそれらしく模倣することはできてもパズルとして完成されることはない。そこには他とは本質的に異なるオリジナルの絵柄を発見することが必要になる。もちろん前述したように、それがいつどこに必要であるか等、パズルはそれ自体が、さらに異なる抽象度のレイヤーに存在する別のパズルのピースとしてユニークな絵柄を描いていくことになる。
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ところで、この構造(絵柄)が "世界にとって新しいかどうか" を明確に識別することは可能だろうか?おそらくそれは誰にとっても難しいだろう。ではなぜ難しいのか。
そもそもこの構造自体をはっきりと読み解き明らかにできる人がどれほどいるだろうか。職業デザイナーでさえも、表面的な成果物からデザインが持つ本質的構造を紐解くことは、抽象度の高い認知能力と経験が求められる高度な技能である。当然一般的にはなんとなくで察するくらいが限度だろうし、それ以外の選択肢を学校教育や社会教育が示すことができていない現状においては妥当な水準である。これはそれが悪いとか能力が低いという良し悪しの話ではない。単に現実を正確に認識するならそうした捉え方になるということであり、取り巻く日常を見渡せば、つまり "デザイン" とは元々そのような位置にあるものだ。
デザインの結果から構造を把握する技能、これらを総じてデザインリテラシーなどと表現することができると思うが、これは包括的すぎて取り掛かりのない何も表現できていない語でもある。そしてこのような語が必要とされラフに成立するあたりに、そもそもの困難さが反映されているとも取れる。つまりデザインという概念を扱う以上、確固たる輪郭のない、ある程度掴みどころのない話をしているという認識は不可欠だということだろう。人間にとって自然に近いものであるなら、自然に受け入れられるはずである。そうなっていないということは、つまり多くの人々にとっては自然な考え方ではないということだ。しかし多少抽象度の高いレイヤーを取り扱うからといって、それで忌避していては埒が明かない。このあたりにも障壁がある。不自然を無理なく受け入れる方法が必要になってくる。
話を戻すと、もしも明瞭にデザインを捉えられたとしても、それが新しいかどうかを判断する能力が次に必要となる。ただ実は "新しいか" を判断するだけであれば案外簡単だったりする。なぜなら適切に構築されたデザインは個別解になるという話をしたように、自ずとユニークになってくれるというありがたい性質があるからだ。問題はそれがどのように新しいのか、社会的な位置付けを改めて定義する必要が求められる場合、例えば世に発表したり、PRを構築したり、コミュニケーションとしてのブランディングを行うなどをする際に、世の中に対してどのように新規性があるか、どういった新しい価値があるかを自ら表現し伝達しなくてはならない。ここで新しさとは何か、といった証明不可能な困難を抱いた命題に行き当たる。
しかしここで良い話がある。デザインは科学ではない。世界の絶対的価値としての新規性、つまりこの世に人類史上存在しなかったかどうか…を計る必要は(ありがたいことに)ない。ここでの新しさとは受け手にとっての感性・論理としての新しさであり、また「新しくなくとも新しさが存在する」という矛盾した状態を取ることができるのがデザインのおもしろいところだ。見慣れたものであっても、世の中で10000回こすり倒されたものであったとしても、適切な相手、適切な場所、適切なタイミングさえ設計(デザイン)されていれば、その機能する構造がこの世にない新しさの価値を持つ。
抽象的な話が過ぎるので例を出す。
例えば商店街の盛り上げ企画を考えるとする。商店街の組合の彼らはとにかく目新しさが必要だと考えている。しかし現実は厳しい。リソースも限られている中で、世界の中で絶対的に新しいものを生み出すことは困難極まる。ただ、要件を綿密かつ丁寧に精査していくと、彼らにとって必要はものは本当にそれなのだろうかということに行き着く。つまり別に新しくはなくとも、必要とされているものを適切な方法で良いタイミングにて提示しさえすれば、それで関わる人々の幸福や利益が最大になる可能性がある。最終的に彼らが行うべきことは、彼らの持つ様々な変数を洗い出し、手持ちの要素を組み合わせることで、最大限の効果を発揮する方法の構造を設計することであった。結果的に、個別解としての構造的な新しい価値がデザインによって生み出されることになる。絶対的な新しさは一切ないが、しかし彼らにとってのみ機能する、彼らにとっての新しい機序がそこには宿る。
これを行えるかどうか。数多の変数を要件として抽出し、現状の構造を把握、新しい構造を設計する技能こそがデザインの職能である。それは極めて複雑で困難な営みであることは想像に難くない。そして、ここからが肝心なところだが、果たしてこの構造の価値を誰が正しく評価できるだろうか?当然それは当事者にしかわからない。言葉を変えればこれはオーダーメイドであるから、当人とそれを享受する対象となる人々(受け手)にとってのみ価値のあるものであるから、客観的な評価は不可能に近い。もしアピールする対象を万人に据える、という要件を立てたとするなら、もしかすると成果物に限っては何らかの評価が行える可能性もある。しかし同時に、彼らがそれを構築したプロセスや、次回以降にも流用可能な構造そのものについては、成果物単体で評価できるものでは決してない。ある集合において内部に閉じており、それは基本的に外部化され得ない。
評価できないからそこには価値がないのかと言われれば、そのようなことはない。対外的に評価される余地はない代わりに、彼らは満足感というスコアを内に持つことになる。もちろん企画が成功すれば利益も得られる。構造を見直して新たな構造を構築したノウハウやナレッジが彼らの内的な資産となる。しかしそれらを量的に評価することはやはり不可能である。
わかりやすさのための架空の極端な喩えではあるが、それなりに有効だろう。デザインはこのような性質を多かれ少なかれ織り込んだ営みであるから、どのみち当事者以外には見えない価値を多分に含んでいる。この不明瞭さ、ある種の人文的な不可能性こそが、デザインの価値を適切に評価することを困難にしている理由の1つとなっている。
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別の視点もある。
デザインが起こす変化は世界を変える性質がある。大言壮語のように聞こえるかもしれないが、それは実際に世界を変える。ただし個人の中での話である。価値観という最小で最大の世界を書き換える。実はここに大きな厄介さがある。それは、多くの人間が、書き換わったときに小さく感動こそすれど、自分が書き換えられたことに気がつくことができない。というより、自分が書き換えられたと思いたくないという認知バイアスによって認知上は不自然な整合が取られ、多くの転換は "なかったことになる"。
「なるほど」と思うことは日常の中でよくある。しかしそこにどれほどの敬意を向けているだろうか。いちいち内省して過去の記録/記憶から自身の差分を確認できる人間などおそらくほとんどいないだろう。腑に落ちる、とか、得心するといった感覚は、実際のところその瞬間に構造が書き換わったことを示す心理的なシンボルである。小さいようでいて、大きな革命が起こっている兆し。しかし同時に、そう思ったのは自分でなくてはならない。人間は自己同一性を保つために、自身にとってクリティカルに重要な変化を "思わされてはいけない" のである。極端な物言いに聞こえるかもしれないが、実際のところ自覚がないというだけで、これが言い過ぎというわけでもない(本当はもっと重篤であるかもしれない)。
デザインは会話でも可能である。つまり構造を編集し書き換え新たな構造へと変化させる行為は、言葉や行動によってもごく当たり前に達成し得る。一般にデザイン活動であると認識されていないだけだ。だからデザインはコンサルティングのような仕事も成り立つし、ドメインをあえて広く取るデザイナーは企画のみでアドバイザーとして関わることも多い。共に歩みながら「なるほど」という感覚を引き出し成長していく手助けをするのもデザインの職能の1つだ。しかし会話や文章によって行うデザインは、不思議と価値をより低く見られやすい。
おもしろい話があって、みな基本的には、なるほど、と思った瞬間のことは軽く見ているが、例えば同一の内容を資料で提示されると、素晴らしい仕事であるという評価に転じることがある。これはデザイナー諸氏にとってはあるあるだろう。さらにここからがより不思議なところで、資料を見て最初は素晴らしいと得心した人が、次回以降になるとその価値を下に見るといったことが起こる。これは一体なんなのか。
一言で言えば「コロンブスの卵」だ。卵を割った後の世界には、卵を割るという発想がすでに存在している。変化の結果を知った人間の内的な世界は、すでに書き換わっているので、書き換わった後の人にとってはそれが「当たり前のこと」になってしまう。そして当人はそれを「当たり前のこと」だと感じる。卵を割った人間には一切の敬意を持たないし持つことができない。なぜなら "今" を生きる私にとっては、卵を割った相手は「当たり前のことを提示しただけの人間」だからである。
良いデザインは、それまでの世界になかった物事の異なる見方を提示したり構造やルールを変化させ新しい価値を提案するものであり、それが社会的機能かつデザインワークを依頼する際の最大の価値であるが、それは世界のスキームを転換する方法であるから事後には"当たり前"と認識され正しく評価されない
— sabakichi (@knshtyk) June 2, 2025
たとえば現在、我々はほぼ全員がスマホを持っている。
それのなかった世界を想像できるだろうか?記憶としては覚えてはいるが、たとえば毎日の時間はどうやって何で確認していたかだとか、情報はどこから入手していたかとか、調べごとやわからないこととはどうやって向き合っていたかといった、我々の人間的な振る舞いや生きる活動において、それに付帯する感覚を思い出せるだろうか?忘れてしまったわけではないが、感覚が束になった思考の核心のようなものは脱落する。代わりにその部分は今生きるための感覚で満たされている。自分にとっての世界の構造が書き換わっているとはそのような状態を指す。そして人間にはこれが日々起きて続けているという事実。情報としては理解ができても直感的には納得ができないほどには、適切な認知からはほど遠い場所にある。しかしiPhoneは突然皆が使うようになったか?携帯電話やパソコンは?車や電話は?ある日突然に世界は変わらないが、その変革を正しく認識することもまた難しい。すべてが "以後の世界" の方が我々にとっては自然だ。これは人間が今を生きる生き物だからだろう。過去は存在しない。
こうした現象はインハウスでも同様で、会社変革の担当チームなども、多くの場合サンドバッグにされ評価が低い結果に陥りやすいのはこのためだろう(心中お察しする)。本当の意味で質の高い改革というのは、人々の意識上のスキームを書き換えてしまう。中途半端な変化の方が、実は評価が高くなる。純度高く変革が成し遂げられると、それが当たり前になってしまい、評価されるどころかその変化がなかったことになる。まるで自分だけが世界の変化を観測できるループものの主人公のようだ。いつの時代も、功労者は功労の度合いが高いほどに報われない。
厄介なことに、デザインはこれを常時引き起こし続ける営みである。事物の構造やスキームを書き換えより良くする。これは人間にとっては実際には認知負荷が極めて高い。時に自身の価値を毀損するような認知的不協和すら引き起こすために、それを無意識的に拒絶してしまう。人間は連続性を保ちたい生き物である。それは自然なことだ。無意識に整合性が取られた結果として、なかったことになる。自分がもとより知っていたこと、自分のアイディア、自分の意見、以前からの自身が持つ構造であると思い込む虚偽の記憶と認知を生み出してしまう。もしかするとこの世の欺瞞の多くは悪意ではなく注意力の低さと内省の貧しさから引き起こされる自動的なものなのかもしれない。世界の多くのコペルニクス的転回は、認知の歪みに吸収され日々平坦化され続けている。人によって乗り越えることのできる段差の高さは異なっている。スロープのように滑らかな斜面でなければ万人に優しいとは言えない。概念的変革においてもユニバーサルデザインが必要であるが、同時に階段を登る訓練も重要である。高い場所へ行く気のない人はどのみちどちらを上がろうともしないから平坦な方が嬉しいだろう。
こうしてデザインは多くの本質的な部分が骨抜きとなり、最終的に成果物として外部化されたグラフィックだったり資料だけが残される。このような機序で "デザインは成果物を作る営みである" という誤謬が蔓延する状態に陥る。人々はこれをデザインの価値であると判断し、評価を行うことになるが、本質的な価値はむしろ成果物には宿らない。成果物は構造の機能を担うだけの存在である。大きな変化は、より質が高く求めていたものであるほど、抽象度が上がり取っ掛かりがなくなり無意識下で整合が取られるために評価の俎上には上がりにくくなる。無形の価値を適切に評価することは可能かという難度の高い問いがただ立ち塞がる。どう変わったのかの差分を得るために世界をすべて記録することは不可能だが、自身の変化に自覚的になる方法を構築する必要はあるということかもしれない。このように認知の偏りを極めて受けやすい分野というのはいくつかあって、大雑把な括りとしてデザインもそのうちの1つに当てはまる。
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こうした困難たちが、デザインの評価には常に付きまとっている。ここではさっと思いついた要素を挙げたに過ぎないがいくらでも書けるだろう。これらを単純にリテラシーの問題と下すには無理があるようにも思える。デザインという行為、営みが抱える根源的な課題であり、これらをどのように評価していくのか、適切な認識を外部化して保つためにはどうすれば良いのか、それらはメソッドや技術として存在させコントロールされるべき命題であるとも思う(そしてそれは教育に組み込まれるべき基礎的な人類の経験であるとも言える)。
評価の脱落や諦めは現在のモノ→コト文脈などでも顕著であるが、少なくともデザインの価値を適切に評価することができなければ、当人たちからもいずれなかったことになることは当たり前にあり得る。つまり当事者であるクライアントや、デザイナー本人すらも、その価値を何らかの方法により外部化せねば、評価不可能に陥る可能性を持っている。認知や記憶というものは、存外容易に書き換わっていく。とはいえ、デザインのここがありがたいポイントなんですよ、というのも品性に欠ける。いやしかしそういうことを堂々と明けっ広げにできている人ほど経歴を評価され衆目を集めている事実は必ずしもこの話とは無関係ではないのだろう。アワードや賞などはこれらを補助するための社会的役割であるとも言える。評価した価値が権威に変換されてしまうと社会や集団にとっての利益とならなくなってしまう問題もある。無形の成果とその価値を外部に固定するという困難はいまだ未解決の領域である。
同時に、デザインの読解能力の世間的な平均が著しく低いというのも事実であるように思える。国別の指標があるわけではないが、DXブーム以前に起こった世界的デザインブームを多くの国々の人々が通過していることを忘れてはならない。そしてこれはなぜかほとんどといって良いほど日本では流行らなかった。この差は大きい。現に、英語話者のYouTubeでは「デザイン言語(Design Language)」という言葉が当たり前に飛び交っている(一般のガジェットレビュー動画等でこれが起きている)。この事態は個人的にも強く驚いている。これはある程度のリテラシーがないと言語として用いることはできないし、残念ながら多くの日本人には理解不能な語だろう。一例だが、そのような程度の差は当然のように存在している。ただOECD諸国の国民的平均が高いかと言われるとそれもまた難しい話ではある。どこも郷に入れば同じようなものかもしれない。
また、普段行っている仕事の多くがデザイン仕事であることに気がついていない人も多い。デザインは特別な概念ではなく、本来は人間にとって非常に自然な営みであるはずだが、何か特別なものとして宙に浮いてしまっていることも問題だろう。日常で何らかの抽象的構造を設計するとき、そこにデザインという概念を組み入れることができれば、自ずと技術(Art / Technique)は追いついて来るようにも思える。少なくとも、"見た目を作ることがデザインである" というような、ひどく幼稚な見立てからはそろそろ遠ざかって行くほうが、全員にとって幸せな世界の捉え方であることは間違いない(もちろんデザインの一要素であるビジュアルデザインを毀損する物言いではない)。
そのあたりを脱し、しばらく駆け抜けた先に、デザインという概念が切り出す営みの輝きがようやく見えてくる。見方を変えれば、このパスを適切に引き、通りやすくすることもまた、もしかするとデザインの役割なのかもしれない。ともすれば、リテラシーの問題はデザイナーの責任でもあるかもしれない。しかし事物の構造を設計(デザイン)する営みは、人類にとってはPrimitiveな基礎的活動である。それを取り出し汎用的な操作言語として扱う理性的な術がこの100年程度の間に発達してきたというだけの話なのだから、インターネットのような複雑な概念を受け入れられたように、適切に捉えられるようになりさえすれば物事は単純であって、デザイナーという職業も不要となるかもしれない。
加速する世界の中で、デザインは沢山の理由で評価がより難しくなっていく時代が訪れることになるだろうが、AIや自動化技術により "それらしいパッと見は良いもの" が溢れることで、むしろ本質的な価値を適切に評価する営みの社会的重要度より高くなっていくだろう。そんな世界の流れの中において、事物の成り立ちを読解し、より良い状態を思考する方法論を詰め込んだデザインという概念とその成果の価値を適切に評価し、人類にとってのコンパニオンとしてデザインが身近な良い道具となる文脈に行き着くことはできるだろうか。
2025年6月7日
sabakichi